AIを、腕利きの相棒にする――翻訳現場から見えてきたこと

KHN Associates

AIを、腕利きの相棒にする

――翻訳現場から見えてきたこと

全29話・7部構成 翻訳会社が7ヶ月間、AI翻訳と向き合い続けた記録

本書は、翻訳会社KHN Associatesがnote.comで発信してきた記事を、一冊にまとめ直したものです。AI翻訳をめぐる検証、翻訳者としての矜持、そして人間にしか担えない仕事とは何か――7ヶ月間、実際にAIと向き合いながら考えてきたことを、全29話・7部構成でお届けします。

AI翻訳を否定するためのものでも、礼賛するためのものでもありません。便利な道具をどう使いこなし、どこに人の手を残すべきか。その線引きを、現場からの実感とともに綴りました。

KHN Associates

CONTENTS

第1部

AI翻訳の検証シリーズ

01

AI翻訳を再検証しましょう

AI翻訳は魔法のツールに見えますが、ふと不安になる瞬間はありませんか?

  • 「誤訳に気づかず、取引先の信頼を損ねていないか?」

  • 「AI任せの文章で、ビジネスの熱量が失われていないか?」

  • 「そもそも、AIと人間はどう使い分けるのが正解なのか?」

そんな「気になること」を解消するため、翻訳会社の視点から7ヶ月間、AI翻訳を徹底検証してきました。こうして、考察を積み重ねてきました。

ここで改めて、これまでの考察から見えてきた「AI翻訳の本質」を、皆さんと一緒に再検証したいと思います。

そもそもAIテクノロジーに席巻されつつあるのは翻訳業界だけなのか?というところからスタートしました(「AIの台頭目覚ましいのは翻訳業界だけ?」)。

AIのスピードと処理能力は人間とは比べ物にならないことは事実です。便利なテクノロジーですから、誰しも使いたくなる気持ちはよくわかりますし、実際に活用されている方もいらっしゃることでしょう。そこで、プロの翻訳者の目線からAI翻訳を使うときにはここに注意しましょうという記事を書きました(「翻訳のプロ直伝!!AI翻訳を使ったら、必ずここをチェックして」)。

2か月後、ビジネスの場面に絞って、AI翻訳を利用するためのポイントをまとめました。内部資料とは違って、対外的な文書を作成する際には、気を付けなければならないところはたくさんあります(「『AIで十分』と思っていた翻訳に、落とし穴はないですか?」)。

これまで記事にしてきたことを、今からAI翻訳に取り組もうという皆さんに向けて「AI翻訳攻略」というテーマで整理してみました。AIの歴史からはじまって、今現在どんなAI翻訳ツールが提供されているかまで解説しています(「AI翻訳攻略-まずは知ることから始めよう」)。

「AI翻訳攻略」シリーズ第2弾では、得意分野と苦手分野を検証しました(「AI翻訳攻略-得意分野と苦手分野を知ろう」)。

「AI翻訳攻略」シリーズ第3弾はまとめとして、AIと人間では根本的にどう違うのか、実例を挙げて検証しています。大きな違いを一言で表現するなら、AIは人間のように考えることができないということです。文脈を理解できない、行間が読めない、ニュアンスを感じることができないのです(「AI翻訳攻略-AI翻訳と人間の翻訳はどんなところが違うのか」)。

まずは入門編としてAI翻訳の概略を解説したのがここまでです。この次にはもう少し違った切り口からAI翻訳を検証していますので、整理して公開したいと考えております。

02

AI翻訳を利用する前に心得るべきこと

何度も言いますが、AIは魔法のツールではありません。使いこなすにはそれなりの心得が必要です

心得その1: 明治時代、日本人はどんなふうに「翻訳」と向き合っていたのでしょうか。日本の翻訳文化の歴史は古い。幕末から今日まで、横のものを縦にする歴史が続いてきた。それは換骨奪胎をする日本の強さでもあった。

心得その2: 弊社とご縁のある奈良・正倉院の名香「蘭奢待」の香り再現プロジェクト、臭気判定士の仕事から見えてきた、"数値化できないもの"の価値。今の時代、測定できないものの価値は見過ごされがちですが、心に響く体験は数値だけでは説明できないところに宿ります。測定できない価値をないがしろにしない。それが翻訳者も含めた「人の仕事」であり、AI時代を見据えたこれからの戦略にもなると考えています。

心得その3: 翻訳・通訳業以外でも、この悩みを持つ方に。翻訳のプロとして、AI時代にどう向き合うか。弊社代表がnoteで語った「翻訳者・通訳者の矜持」。AIなどという得体の知れない存在の正体を見極め、AIにはその能力に応じた便利ツールとしての仕事をさせましょう。その間に、人間は人間でなければできない仕事に集中すればいいのです。

心得その4: AIが生み出す「言葉の均質化」。英語圏で明確に進行しているとされる言葉の変化を、翻訳者の視点から読み解きます。言葉は常に変わり続けます。今、英語が直面している均質化も、長い言葉の歴史の中では変化の一つに過ぎません。ただ重要なのは、何でも鵜呑みにするのではなく、メカニズムを理解しながら、何を重んじるのかという評価軸を一人ひとりが持つことではないでしょうか。

心得その5: 「十人十色」の背景を持つ人間同士の橋渡しをする翻訳。すべてを理解することはできない、という自覚があるからこそ、ニュアンスの確認が欠かせません。AIでは拾えない細やかな意図を、人間のプロ翻訳者が責任を持って伝えることがビジネスの信頼を守る最良の一手と言えます。翻訳の手間やコストを省く目的でAIを使うのは本末転倒、「生兵法は大けがのもと」になりかねないリスクを孕んでいます。

心得その6: 「言葉は生き物であり、翻訳者は生身の人間である」という創業以来のモットーを軸に、AI翻訳の進化と人間の役割について考察。世の常ですが、AIのような最新テクノロジーに限らず新しい考え方や目新しい技術が発表されると、お約束のように推進派と慎重派が出現します。どちらも一長一短あって、闇雲に突き進めば痛い目に合うこともあるでしょうが、石橋を叩いてばかりいては時代に置いてきぼりになるのは間違いありません。

心得その7: SNS投稿が、まさかのブロック!?「AIを使った省力化」が招いた問題と翻訳の現場でも起こりうる注意点について、実体験をもとに考察。勿論、あなた自身が外国語で書かれたニュースの概要をサラッと知りたいときなど、便利なツールとしてAI翻訳を使うことは自由です。誰かに遠慮する必要もありません。ですが、ビジネスの場面でAIがアウトプットした翻訳文をチェック無しで使うことだけはお勧めしません。

いかがでしたでしょうか、七つの心得、それぞれが重いですよね。

AI翻訳はワンクリックで瞬時に作文はしてくれます。しかし、その文章にあなたの「思い」まで込められているでしょうか。或いは、書いた人の「思い」は伝わってきますでしょうか。

もっと言えば、あなたは何のためにわざわざ外国語に翻訳する、或いは外国語から日本語に翻訳する必要があるのか、ということなのです。

心を持たないAIが作ってくれた文章が信頼できますか?それでもAI翻訳を使うというのであれば、この七つの心得は胸に刻んでおいてください。

敢えて書きますが、日本の古い諺「馬鹿と鋏は使いよう」です。誤解を避けるために補足しておきますが、「馬鹿」とは使い手、「鋏」とは優れたツールを意味しています。そして、「仏作って魂入れず」という言葉もありますが、最後に仕上げるのはあなたです。使い方さえ間違わなければ、AIは便利な最強のツールになります。

03

AI翻訳を利用する為の実践トレーニング

入門編、心得編ときて最後の実践編です。AIを便利なツールとして使いこなしましょう

AI翻訳まとめシリーズの三回目、今回の実践編にて完結します。すぐに役立つ具体例を示しながら、アライグマの先生が解説しています。

生成AI翻訳の導入、品質とリスクの見極めは万全ですか?現役翻訳者が実際にAIを使いながら、翻訳精度と"見落としがちな落とし穴"を検証しました。

AI翻訳が見落としがちな"細部"を、実例をもとに徹底検証。固有名詞の揺れ、地理関係の誤読、数字の単位など、実務で無視できないポイントをプロはどう補うのか、解説しています。

国際的なビジネスの現場で、AI翻訳はどの程度頼りになるか——最新の五輪ニュースを題材に、主要なAI翻訳ツールの"実用度"を比較しました。翻訳のプロが見た「使えるポイント」と「落とし穴」。

AIで翻訳させてみたけど、なんだか分かりにくい、ぎこちない…そんな経験、ありませんか?プロ翻訳者の目線で、どう手直しすればいいかを事例とともに解説しました。

AI翻訳が進化する中でも、映像翻訳(字幕・吹替)はプロが手掛けたものと、自動で翻訳・編集したものと差が特に激しい領域です。プロがどこに目を配り、どんな工夫でこの"質"を保っているのかを、具体例とともにわかりやすく解説します。

AI翻訳が当たり前になった今、「伝わる英語」と「ただの英訳」の差はどこにあるのでしょうか。AIによる翻訳とプロ翻訳者の訳文を比較し、ビジネス文書で"刺さる表現"をどう作るかを解説しました。

いかがでしたでしょうか、実践編、筆者の思いは伝わりましたでしょうか。

「一晩寝かしたカレーは旨い」といいますよね。ですが、翻訳はただ寝かせておいても旨くはなりませんよ。あと一手間を惜しまない心掛けが大切です。

行列ができるレストラン、何がそんなに人気が出るのでしょうか。一言でいえば、お店で提供するお料理に心を込めて調理しているからではないでしょうか。レトルトまがいの料理を出す店もあれば、仕込みから長い時間をかけてプロが仕上げるお店、一口食べればわかりますよね。

AI翻訳でワンクリックで書き出す翻訳にあなたの心はこもっていますでしょうか。もうひと手間加えましょう。そこが、読まれるか読まれずにごみ箱に捨てられるかの分かれ目です。プロの翻訳者はこの「ブラッシュアップ」を怠りません。AI翻訳丸出しの文章ではなく、あなたの一味を加えたどこにもない文章を仕上げませんか。もしもできなければ、プロに頼んでください。あなたの思いを文字にして、読まれる文章に仕上げます。

04

翻訳料はコストなのか投資なのか

翻訳料は単なる「コスト」ではなく、将来の売上やブランド価値の向上をもたらす「投資」です

この考え方はAI翻訳など存在しなかった弊社創業時から変わりません。

翻訳料をただ単に支出を削るべき対象とするのではなく、目的に合わせて予算配分を最適化する考え方をしなければならないと思っています。翻訳料を「コスト」と見るか「投資」と見るかは、その翻訳物が果たす役割によって明確に分かれます。

①「コスト(削減対象)」と見なされる場合 目的:社内資料、社内マニュアル、一時的な連絡など、社内という狭い中で意味が伝わればよい場面。特徴:低価格かつ短納期が求められます。最適な手段:AI翻訳を活用し、人間による修正を加えながら、業務効率化と支出の最小化を図るのも一つの手段です。

そもそも論ですが、海外取引を始めたばかりのクライアントには、社内に英語(外国語)ができる人材がいないかもしれません。いなければ、中途採用でもいいから採用しましょうと助言してきました。そして、その人材が一人前に育つまでは弊社がお手伝いしますと。能力のある人材の確保は、将来を見越した投資と考えることができます。

②「投資(売上・信頼の獲得)」と見なされる場合 目的:Webサイト、製品パンフレット、プレスリリース、契約書、マーケティング資料など。特徴:企業のブランドイメージや売上に直結し、法的リスクにも関わります。効果:現地ユーザーの文化や文脈に最適化された翻訳を行うことで、コンバージョン率の向上や顧客からの信頼獲得に繋がります。最適な手段:プロの翻訳者や専門知識(医療・法務・ITなど)を持つ翻訳会社に依頼し、品質重視で取り組むもの。

具体的に、弊社がこれまでにやってきたことを例として紹介します。

〇特殊な産業機械メーカーの海外向け対応〇 このメーカーの製品は技術的には世界水準ではあるものの、取扱説明書は日本国内向けの古いスタイルのままでした。まずは、技術部の取扱説明書編集責任者とタッグを組んで、何度も現場に足を運んで海外向けの取扱説明書に翻訳できるレベルの日本語版の統一書式作り(テクニカルライティング)から取り組みました。なぜなら、それまでは用途別に何種類もあるシリーズ機それぞれの設計担当者自身が取扱説明書を作成していたために、間違ってはいなくても設計者によって微妙に表現や用語にバラツキがあったり、わかりきった手順が省略されたりしていたために、輸出先ではじめてその機械を使う人にとっては非常に説明が理解しづらい書き方だったからです。同時に、社内で使える日英対訳表現集にも取り組み、海外営業担当の英語堪能なセールスエンジニアも交えて「伝わる表現」を研究しながらブラッシュアップしていきました。今では、英語版取扱説明書も洗練されて、英語圏以外の国々の言語への翻訳のご依頼へとニーズが変化してきました。→これは②の「投資」に該当します。

〇大学で技術開発された特殊用途向けの製品〇 このメーカーでも取扱説明書に取り組ませていただきました。社長の方針は海外向けの製品には統一規格の取扱説明書が必要とのお考えでした。取扱説明書と並行して、製品の画期的な性能をアピールするためにこれまでの研究データの翻訳もお手伝いさせていただきました。→ここまでは②の「投資」です。画期的な製品だったようで、海外からの英文の引き合いメールが毎日のように届いていました。ところが、英語は読めても書くのが苦手(時間がかかる)という方はよくいらっしゃいますが、この会社でも同じでした。そこで提案したのが、メール返信専門の英訳サービスです。午前中に英文メールの原文とそれに対応する日本語の返信文面を送ってもらって、随時英訳して送り返すというものです。→つまり①の「コスト」に該当します(AIがない時代でした)。

〇外資系ブランドの日本国内展開のお手伝い〇 何社かお手伝いさせていただいておりますが、最も古いところでは20年以上のお取引になります。本国の目指すブランドイメージを日本国内に浸透させるために、日本国内向けのローカライズが必要でした。高級感と洗練された雰囲気を損なわないよう、同時に原材料の希少性や加工品質の高さまで表現しなければなりませんので、各ブランドに選任の翻訳者をあてることにしました。こうすれば、毎回違う翻訳者の対応で生じるトーンの揺らぎの防止、そして製品知識の積み上げができるようになりましたので、日本人の消費者には親しみやすいものになったはずです。AI翻訳が様々な分野で活用されるようになった現在でも、人の感性を翻訳できるのは人でしかありませんので、ご贔屓いただいております。→これは間違いなく②の「投資」のケースです。

共通して言えることですが、AIにできることはAIにやらせればいいのです。しかし、大切なのは「読み手は人間」だということです。血の通った人間がやるからこそ、読み手の人間に訴えかけられる文章を書くことができます。文字が並べば翻訳文が完成するのではありません、その文字の並びがあなたの思いを読み手に訴えることができるかどうか、見極めましょう。

最後に一言:翻訳料を経費削減の対象と考えないでください。海外取引にかかるコスト分布の中で、販売・マーケティング費用の割合は10~15%というデータがありますが、総売り上げと比較した翻訳料はその中の更に微々たる金額です。AIがやってくれるから予算を削るというのは本末転倒です。すくなくとも、投資とみなすべき部分には予算を割り当てるようにしませんか。

05

失敗する翻訳発注の特徴

失敗する翻訳発注の多くは、「翻訳=コスト」として一律に扱ってしまうことに原因があります。しかし実際には、文書ごとに目的や影響範囲は大きく異なります。重要なのは、翻訳を一括りにせず、「どの文書に投資すべきか」を見極めることです。その判断ができるかどうかで、海外展開の成果は大きく変わります。

海外展開の成果を左右する「よくある失敗」五つのパターン

お叱りを受けるのを承知で最初に敢えて書きますが、社内にベテラン翻訳者並みの英語(外国語)のプロがいるならともかく、そうでなければ以下のような対応はすべて失敗につながります。

  • そろばん勘定だけでは、安物買いの銭失いになりかねません

  • どこにコストを配分するか、判断しなければなりません

  • 如何に優秀な翻訳者であっても、あなたの心までは読めません

  • 翻訳者であろうとAIであろうと、結果は原文次第です

  • 腕のいい翻訳者、翻訳会社はあなたが納得いくまで付き合ってくれます

06

検証して来たから言えること

検証シリーズ第1回

これまで7か月間、「AI翻訳と人間翻訳」を様々な角度から検証してきました。

先にお伝えしておきたいことがあります。私たちは、AI翻訳を否定するためにこのシリーズを書いているわけではありません。

AIの翻訳スピードには、人間はどう頑張っても敵いません。24時間365日、疲れることなく、瞬時に大量の文章を訳してくれる。この利便性を否定する理由はどこにもありません。実際、社内向けの資料や、ニュースの概要をざっと知りたいときなど、AI翻訳で十分事足りる場面は数えきれないほどあると思います。

では、なぜ私たちは7か月もの間、AI翻訳を検証し続けてきたのか。それは、「便利であること」と「そのまま使って問題ないこと」は、必ずしもイコールではないからです。

検証その1:固有名詞は、AIが最も揺れやすいポイント

ある英文ニュースを、ChatGPT・Gemini・DeepLの3つに翻訳させたときのことです。原文にはアメリカ・カリフォルニア州の「Berkeley」「Albany」という地名が登場していました。結果は三者三様でした。Berkeleyを「バークレー」と訳すAIもあれば「バークリー」と訳すAIもあり、Albanyに至っては「オールバニ」と「アルバニー」で表記が割れました。

人間の翻訳者であれば、ここで地図を確認し、複数の情報源での表記頻度を照合したうえで、どちらの表記がより一般的かを判断します。AIは「それらしく」訳すことはできても、その地名が実際にどこを指し、日本語としてどちらの表記が定着しているかを自分で調べにいく、という発想そのものがありません。

数字の単位についても同様の傾向がありました。「4,600 customers」という表現を、あるAIは「4,600人」と訳しましたが、電力会社の契約件数を指す文脈では、本来「戸」や「世帯」とすべきところです。実際、放送業界や新聞社の間でも「軒」「戸」「世帯」の使い分けには長年の議論があるほど、この判断は繊細なものです。

検証その2:「書かれていないことを、もっともらしく付け足す」という癖

別の検証では、スポーツニュースの一文をAI翻訳にかけたところ、ある大手AIの翻訳文に、原文には存在しない「予選を通過して」という一節が、さも当然のように追加されていました。文脈としては誤りではありません。決勝に進んだのだから予選は通過しているはずです。ですが、これは推測であって事実の記述ではありません。もしこれが記事ではなく契約書や技術文書だったとしたらどうでしょうか。

AIが「たぶんこうだろう」と補った一文が、そのまま「原文にはこう書かれていた」という体裁で読み手に届いてしまう。これは看過できないリスクです。

別の検証記事でも、同じ傾向は繰り返し見つかりました。天候に関するニュースをAIに訳させた際、実際には記述のない被害の状況を、AIが前後の文脈から「補って」しまうケースがありました。悪意があるわけではありません。AIは、文章として自然に「つながる」ことを優先するあまり、事実の有無よりも文の流れを重視してしまう傾向があるのです。

ここまでの検証を通じて見えてきたこと

7か月間の検証を通じて、私たちが繰り返し目にしてきたのは、次のような傾向です。

  • 固有名詞や数量表現など、「調べれば分かること」を自分で調べにいく発想がない

  • 文脈的にありそうなことを、事実として補ってしまうことがある

  • 文法的には正しくても、「誰が読むか」「どう受け取られるか」までは考えていない

これらは、AIの性能が低いという話ではありません。むしろ翻訳の速さや基本的な精度は年々向上しています。ただ、「正確に訳す」ことと「責任を持って伝える」ことの間には、まだ埋まっていない溝がある、というのが、これまでの検証を経て私たちがたどり着いた実感です。

次回記事では、この検証結果を踏まえて、AI翻訳がどこまで安心して任せられ、どこから先は人の目が必要になるのかを、もう少し踏み込んで整理します。

07

では、どこで線を引くか

検証シリーズ第2回

前回は、7か月にわたる検証の中で見えてきた、AI翻訳の具体的なつまずきの事例をご紹介しました。固有名詞の表記ゆれ、数量詞の判断、そして「書かれていないことを、もっともらしく付け足す」という癖。

今回はこれらを踏まえて、AI翻訳はどこまで安心して任せられ、どこから先に人の目が必要になるのかを整理してみます。

AI翻訳が得意な領域

まず正直にお伝えしておくと、AI翻訳には明確に「向いている」分野があります。

  • 定型的なビジネス文書・社内文書

  • マニュアル

  • Webサイトの一般的な文章

  • 日常的な話題のやり取り

  • ストレートニュース(スポーツ、天気など、事実を淡々と伝える)

これらに共通するのは、パターン化されていて、構造が明確で、一般的な語彙で書かれているということです。こうした文章であれば、AI翻訳は十分に実用的な精度を出します。速さとコストの面でも、人間はまったく敵いません。

AI翻訳が苦手な領域

一方で、次のような要素を含む文章は、AI翻訳が本質的に苦手とするところです。

  • 文脈に依存する表現(例:「結構です」が状況によって承諾にも拒否にもなるようなケース)

  • 微妙なニュアンス

  • 文化的背景の理解が必要な表現

  • 書き手の意図や感情

さらに、次のような分野は、AI翻訳だけに任せるにはリスクが大きい領域です。

  • 医療・法律・特許・金融・ITなど、高度な専門知識を要する翻訳(誤訳が重大な影響につながる可能性がある)

  • 契約書や規格文書など、一言一句の正確さが問われる文書

  • 文芸翻訳やマーケティングなど、創造性・表現力が求められる翻訳

前回ご紹介した「書かれていないことを付け足す」という癖も、まさにこの領域で顔を出します。AIは、文章としての自然さを優先するあまり、事実の有無よりも文脈のつながりを優先してしまうことがあるからです。定型文書であれば大きな問題になりにくいこの癖も、契約書や技術文書では致命的なリスクになり得ます。

「向き不向き」で線を引く

ここまで整理すると、AI翻訳を「使うか使わないか」という二択で考えること自体が、実はあまり意味を持たないことが分かります。大事なのは、どんな文章に、どこまでAIを使い、どこから人の目を入れるかという線引きです。

社内のメモや、情報をざっと把握したいだけの資料であれば、AI翻訳だけで十分なケースは、実際にたくさんあります。無理にすべてを人間が訳す必要はありません。

御社が対外的に発信している文書、たとえば契約書や規格文書、ウェブサイトや提案資料の英訳は、どなたが最終的にチェックされていますか。AI翻訳をそのまま使っていたとしても、それ自体が悪いわけではありませんが、前回ご紹介したような「AIが自信満々に、実は間違った固有名詞や、書かれていない情報を付け足していた」としたら、それに気づける体制が社内にあるかどうかは、また別の話です。

7か月間の検証を通じて、私たちがたどり着いた結論はシンプルです。AI翻訳を使うか使わないか、ではありません。どこで人の目を入れるか、という話なのです。

ここまでの二回は、AI翻訳を否定するために書いてきたわけではありません。むしろ、AIという強力な武器をどう使いこなすかを、翻訳のプロという立場から一緒に考えてきたつもりです。もしここまで読んで、「うちの場合はどうなんだろう」と思うところがあれば、それだけでもこの記事を書いた意味があったと思っています。

08

AIがあれば翻訳者はいらない

検証シリーズ第3回

「AIがあれば翻訳者はいらない」って、本当ですか?

生成AIの翻訳精度は、この数年で驚くほど上がりました。ChatGPTやGemini、DeepLに文章を放り込めば、それらしい訳文が数秒で返ってきます。だとすれば、「もう翻訳者は要らないのでは」という声が出てくるのも無理はありません。

けれど、実際にAI訳と自分の訳を並べて検証してみると、見えてくるものがあります。今回はその中から、現場で繰り返し感じてきたことをいくつかご紹介します。

AIは「もっともらしい嘘」をつくことがある

以前、自分自身の翻訳とAI翻訳を並べて検証したことがあります。結果として気づいたのは、AI訳には、原文には書かれていないことを、いかにも書かれていたかのように、もっともらしく付け足してしまう癖があるということでした。

厄介なのは、その付け足しが文法的にはまったく破綻していないという点です。文章として不自然な箇所がないぶん、原文と照らし合わせない限り、間違いに気づきにくいのです。AI翻訳を使うなら、その最終チェックを担うのは、結局のところユーザー自身しかいません。

現場で見えている落とし穴

生成AIを業務に取り入れる企業は、ここ数年で急速に増えています。ただ、実務の現場では、便利さの裏にある落とし穴もよく見かけます。

たとえば、ブランドが長年かけて磨いてきたコピーの独自のニュアンスが、AI翻訳を通すことで薄れてしまうケース。あるいは、社内向け文書のトーンが誤って解釈され、必要以上に硬い訳文になったり、逆にカジュアルすぎる訳文になったりするケースです。

これらに共通するのは、AIが「行間」を読み切れないということです。行間には、書き手の立場や読み手との関係性、その業界特有の言い回しが詰まっています。AIはそこまでは拾いきれないことがあります。

AIによるチェックにも限界がある

以前、SNSに投稿した文章が、AIによる自動モデレーションによって誤って不適切な内容と判定されたことがありました。翻訳に限らず、AIによる自動チェックという仕組みそのものにも、まだ限界があることを実感した出来事でした。

AIは万能でもなければ、無力でもありません。「生かすも殺すも使い手次第」というのが、現段階でのAI技術に対する率直な評価です。使う人間がどこまで理解し、どう補うかによって、その価値は大きく変わってきます。

経験でしか埋まらない部分がある

海外取引の現場では、契約書に書かれた文言そのものよりも、相手の意図や商習慣の機微を読み取る力が問われる場面が少なくありません。それは長年の経験でしか培われないものであり、AIに代替させられるものではありません。

「AIか人か」ではなく

AI翻訳を頭ごなしに否定するつもりはありません。使い方次第で、AI翻訳は強力な武器になります。ただし、その価値を引き出すのも、落とし穴を防ぐのも、結局は人間の経験と判断力です。

翻訳者・通訳者の役割は、「AIの代わりに全文を訳す」ことから、「AIが訳したものを、経験にもとづいて見極め、仕上げる」ことへと変わりつつあります。それは仕事が失われるということではなく、役割が転換していくということです。

09

AIとどう付き合っていくか

検証シリーズ第4回 ――コスト・効率の先にあるもの

生成AIをめぐる会話では、「安くなる」「速い」「便利」という言葉がまず先に来ます。実際、その通りだと思います。ただ、そこで立ち止まって考えたいことがいくつかあります。

コスト削減の前に、問い直してほしいこと

翻訳業務をAIに置き換える動きが広がっています。コスト削減の観点からその魅力はよく分かります。ただ、AI翻訳には「もっともらしい誤り」を生み出す癖があり、原文と訳文の両方を理解できる人間によるチェックが欠かせません。その工数を差し引いたとき、本当にAIの方が安いと言い切れるでしょうか。

そもそも、翻訳費用は多くの企業にとって全社経費のごく一部にすぎません。業務フローの非効率や組織の重複コストなど、社内に眠る削減余地は他にもあるはずです。外注費の削減は社内の抵抗が少なく即効性があるように見えますが、それは単に、最も抵抗の少ない場所にコスト削減の刃を向けているだけかもしれません。

コスパ・タイパという物差しだけでは測れないもの

コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスは、ビジネスにおいて大切な考え方には違いありません。ただ、その物差し一本で測れるものばかりではありません。

たとえば、ChatGPTのような生成AIに質問すれば、一瞬で回答が返ってきます。ただ、そこで得られる情報は誰が使っても同じものになりがちで、自分だけのとびっきりの情報を得ようとすれば、結局は多角的な調査という手間がかかります。

かつて富山の薬売りは、コスパ・タイパの観点からすれば非効率極まりない「行商」というスタイルで、一軒一軒を訪ね、顧客との信頼関係を積み重ねてきました。それが代々受け継がれてきたのには理由があります。本物の信頼関係は、効率だけでは築けません。

便利さと引き換えに失うもの

同時通訳機能付きのデバイスが登場し、言葉の壁は急速に低くなっています。ただ、実際の使用例を見ると、機械が訳した言葉のニュアンスによって、話し手の意図とは違う印象を相手に与えてしまうことがあります。言葉を知らなければ、その翻訳が正しいかどうかを自分で判断することすらできません。

異文化交流には、言葉が通じずにもどかしい思いをする体験そのものに価値がある場合もあります。便利なツールがその摩擦を取り除いてくれる一方で、そこから得られるはずだった学びが失われている可能性もあります。

AIとの理想的な棲み分けへ

AI活用の裾野が広がることそのものは、歓迎すべきことだと思います。多くの人がAIに触れることで、AIの得意・不得意がより広く可視化され、AIのさらなる進化にもつながるはずです。

かつて黒船が鎖国を終わらせたように、AIは言葉の壁という「言葉の鎖国」を終わらせるかもしれません。一方で、産業革命によって一旦は機械化・大量生産の便利さに飛びついた人々が、時を経て熟練の職人技の価値を見直したように、AI時代にも同じことが起きるのではないでしょうか。

この仕事はAIに任せて早く仕上げ、もう一つの仕事は人間が時間をかけて確かなものに仕上げる。そんな棲み分けの意識が、利用する側に育っていくことが理想の未来だと考えます。

10

AIには測れない言葉の本質

検証シリーズ第5回

前回は、AIとどう向き合うかという実務的な視点から考えてきました。この回では少し視点を変えて、翻訳という営みそのもの、そして言葉の本質について掘り下げてみます。

「あなた」「私」「誰か」のあいだにあるもの

翻訳をする「私」は、原文を書いた「あなた」ではありません。そして、その翻訳文を読むのは「私」でも「あなた」でもない「誰か」です。

書き手が考えていること、伝えたいことのすべてを、翻訳者が完璧に理解できるとは限りません。だからこそ、疑問があれば確認するという工程が欠かせません。ところが、AIによる翻訳・通訳には、この「確認」という工程が存在しません。結果として書き手が意図しないニュアンスの訳文が、確認のしようもないまま「誰か」に届いてしまう可能性があります。

AIが均していく、私たちの言葉

英語圏では、AIが推奨する定型表現や語彙が広く使われるようになり、文章がどことなく似通ってきているという現象が観察されています。これは一過性の流行ではなく、AIが提案した表現を人間が採用し、その文章が再びAIの学習データに取り込まれ、次の提案に反映されるという循環によって、じわじわと固定化されていく構造的な変化だと考えられています。

同じ現象は、いずれ日本語にも及ぶかもしれません。ただ、日本語の歴史を振り返れば、和製漢語や外来語を柔軟に受け入れ、自分たちに合わせて再編してきた歴史があります。AIがもたらす変化も、その延長線上にあると捉えることもできるでしょう。大切なのは、変化を鵜呑みにするのではなく、そのメカニズムを理解した上で、何を大切にするかという評価軸を自分の中に持つことだと思います。

数値化できないものにある価値

奈良の正倉院に伝わる香木・蘭奢待の香りを再現するプロジェクトでは、科学的な成分分析だけでは香りを再現することができず、最終的には調香師が5か月をかけ、自らの鼻で香りを探り出す必要がありました。臭気判定士の仕事も同様で、機械のセンサーでは検知しきれない、においの微妙な違いを人間の感覚が捉えています。

翻訳も同じではないでしょうか。データ処理のような言葉の置き換えでは、文脈や文化的背景を捉えきれません。人間の鼻がにおいのニュアンスを読み取るように、翻訳者は文脈や文化の背景を感じ取りながら言葉を選びます。測定できないものの価値を軽んじないことが、翻訳者を含めた「人の仕事」の核にあると思います。

「換骨奪胎」としての翻訳

幕末から明治にかけて、欧米の書物や概念は単なる逐語訳ではなく、日本の文化的・社会的背景に合わせて内容を再構築する「換骨奪胎」的な姿勢で翻訳されてきました。福沢諭吉が生み出した「自由」「経済」といった和製漢語、夏目漱石が語ったとされる意訳の逸話は、いずれも翻訳とは単なる言葉の置き換えではないことを物語っています。

美しい日本語を台無しにしてしまうような単なる言葉の置き換えは、もはや翻訳とは言えないのではないでしょうか。単なる逐語訳ではなく「換骨奪胎」という作業こそが、本来の翻訳という行為だと考えています。

結びに

AIは、文法的に正確な訳文を素早く作ることができます。ただ、書き手の意図を確認し、文脈やニュアンスを読み取り、読み手の文化に合わせて言葉を選び直すという作業は、今なお人間にしかできない領域として残っています。

測定できない価値を大切にしながら、言葉と向き合っていくこと。それが、AI時代における翻訳者の役割だと考えています。

第2部

AI翻訳を正しく理解する(実践編)

11

AI翻訳を正しく理解しチェックする

AI翻訳とは何か、人間の翻訳と何が違うのか、そして使うときに何をチェックすべきか──この3つを、あらためて整理し直します

Google翻訳、DeepL、ChatGPT、Gemini、Claude……。無料版・有料版を含め、AI翻訳ツールは数え切れないほど存在し、私たちの生活やビジネスに深く浸透しています。手軽に、大量の文章を、ワンクリックで翻訳できる。これがAI翻訳最大の魅力です。

一方で無料版にはセキュリティ面の懸念、用語集が設定できない、文字数制限、対応言語の少なさといった制約があります。ツールの種類を問わず、訳抜けや誤訳の可能性、専門用語への対応の難しさ、出力の揺れ、日本語をはじめとするアジア言語を苦手とする傾向も共通しています。AI翻訳は「非常に便利だが、万能ではないツール」。この前提に立つことが、上手な付き合い方の第一歩です。

では、AIと人間の翻訳は何が違うのか。同じ英文をDeepL・ChatGPT・弊社のナンバーワン翻訳者に訳してもらい比較したことがあります。AI訳は文法的には正確でしたが、どこか「英文和訳の答案」のような硬さが残りました。人間の翻訳者は、単語一つひとつの含意まで踏み込んで訳語を練り上げていたのです。辞書に載っている意味は、あくまで代表的な意味でしかありません。書き手が本当に伝えたかった心情を想像し、文脈に最もふさわしい訳語を自ら作り出す。これは今のAIにはまだ難しい仕事です。この「AIの出力を人間がチェック・ブラッシュアップする」工程を、MTPE(Machine Translation Post-Editing)と呼びます。

弊社が納品前に必ず確認している5つのチェックポイントもご紹介します。①訳抜け・誤訳がないか、②自社の用語・文書スタイルに沿っているか、③社名・人名・製品名など固有情報が正しいか、④表記が統一されているか、⑤誤字脱字・スペルミスがないか。この地道な工程が、AI翻訳の品質を「使えるレベル」から「任せられるレベル」に引き上げます。

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現場でのブラッシュアップ実例

AI翻訳をどう手直しすれば「伝わる訳文」になるのか。3つの現場から見ていきます

一つ目は映像翻訳。映画『プラダを着た悪魔』の一場面、編集長がアシスタントの面接で放つ“Who are you?”を、あるAIは「あなたは誰?」と訳しました。文法上の問題はありません。しかしプロの字幕翻訳者はこれを「名前は?」と訳します。セリフの意味だけでなく、状況・キャラクター・尺・日本語としての自然さまで踏まえて言葉を選ぶ。字幕はもはや単なる「情報」ではなく「演技の一部」なのです。

二つ目は日本語から英語へのビジネス文書。「お客様の満足度向上に努めてまいります」を、あるAIは“We strive to improve customer satisfaction.”と訳しましたが、プロはあえて主語を変え、“Enhancing customer satisfaction remains at the heart of everything we do.”とします。満足度向上を主語に据えることで、それが企業の姿勢として根付いていることを伝えるのです。

三つ目はニュース記事の翻訳。AIに翻訳させると、意味はだいたい分かるけれど日本語がぎこちない、と感じることがあります。英語特有の「言い換え」をそのまま日本語にすると違和感が出るため、あえて同じ言葉を使い続けたほうが読みやすくなる場合が多いこと、原文の構造や語順を組み替えて自然な日本語に整えることなど、工夫の余地は数多くあります。

3つの現場に共通していたのは、AIは「一文一文を正確に訳す」ことはできても、「その文が誰に、どんな文脈で、どんな印象とともに届くか」までは考えられない、ということでした。便利なツールとして活用しながら、最後は人間の目と心で文章を読む。この姿勢を大切にしていただければ、AI翻訳はきっと、皆さんの心強い味方になってくれるはずです。

第3部

翻訳者の矜持・職人技シリーズ

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翻訳者こそ、現代の代書屋なのです

「誰かの言葉を、誰かに代わって形にする」という営みについて

車の中で聞いていた上方落語「代書屋」。読み書きが苦手な客が、履歴書や願書、恋文を代わりに書いてもらいに代書屋を訪ねる噺です。客の話はとりとめがなく、代書屋はそこから「使える情報」を拾い集め、体裁の整った文書に仕立てていきます。この構図は、AIに何かを依頼するときの私たちの姿と、少し重なります。

代書屋も翻訳者も、ある形で表現された、あるいは表現しきれていない内容を受け取り、それを別の形で「通用するもの」に作り直す仲介者です。AI翻訳が「原文には書かれていないことを、もっともらしく付け足してしまう」癖は、代書屋が乏しい情報から履歴書を「創作」せざるを得なくなる場面と同じ構造です。ただし人間には、代書屋の噺には出てこない工程が一つあります。「確認する」という工程です。疑問があれば書き手に問い合わせる、曖昧なものは曖昧なまま訳す。この一手間があるかどうかが、笑い話で済むか実害を被るかの分かれ目になります。

代書屋の客の話は多くの場合「未完成」で「欠落」のある口頭情報です。一方、翻訳者が向き合う原文はすでに完結した書き言葉であり、欠落しているのは意味そのものではなく言語間の等価物にすぎません。翻訳者の本分は「意味の生成」ではなく「すでにある意味の移し替え」。クライアントの依頼を、何も足さず何も引かず、求められるままに訳しきる。そのために、相手をよく知り、疑問があれば躊躇なく確認する。これこそが、人間翻訳者の仕事だと考えています。

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辞書に載っていない言葉を、翻訳者はどう訳しているのか?

人間翻訳の職人技シリーズ 第1話 ── 辞書はスタート地点にすぎない

英和辞典を引けば訳語は並んでいますが、そのまま当てはめても意味が通らないことがあります。辞書に載っているのは代表的な意味だけだからです。弊社の翻訳者が実際に直面した3つの小さな事件をご紹介します。

“advance the trajectory”を直訳すれば「軌道を前進させる」ですが、これでは意味が通りません。英英辞典を調べると“trajectory”には「発展の道筋」という比喩的な意味があり、最終的な訳は「登用を推進する動きが……」となりました。高級ブランドの資料にあった“New glossy leather animation”の“animation”は、実はブランド内で素材やパーツを変えることを指す社内用語。辞書のどこにも載っていない用法で、動詞“animate”の本来の意味「生命を吹き込む」に立ち返って訳語を組み立てました。そして“elevate”は「格上げする」と辞書的に訳しても間違いではありませんが、同僚が“elevated everyday pieces”を「ワンランク上の普段着」と訳したのを見て、辞書の訳語では拾いきれなかった空気感を、たった一言で捉えていることに気づかされました。

3つのエピソードに共通するのは、「正解は辞書の中にはなかった」という一点です。英英辞典を掘り下げ、語源に立ち返り、同僚の訳にヒントを得る。翻訳という仕事は、辞書を出発点にしながらも、文脈・原義・人の感性を総動員して「今この場に最もふさわしい一語」を探し続ける営みなのだと思います。

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翻訳は、なぜコストではなく投資なのか?

人間翻訳の職人技シリーズ 第2話

翻訳を「コスト」として一律に扱ってしまう企業には、ある共通点があります。判断の物差しはシンプルです。その文書が社内で完結するのか、社外の相手に届くのか。社内資料であればAI翻訳と軽い手直しで十分な「コスト」の領域、Webサイトや契約書、マーケティング資料のように企業のブランドイメージや売上、時に法的リスクに直結する文書は、プロの翻訳者に任せるべき「投資」の領域です。

投資の領域がプロでなければならない理由は3つあります。一つ目は「忠実な補助者としての仕事」。曖昧な表現は曖昧なまま訳し、矛盾や飛躍があれば依頼者に確認する──これは原文を入力すれば出力が返ってくる仕組みでは成立しません。二つ目は「心を動かす力」。ビジネス翻訳と、読み手の心を動かすマーケティング翻訳は異なる役割を持ち、後者はクリエイティブな行為そのものです。三つ目は「翻訳コメントという付加価値」。原文の裏にある小さな違和感に気づき指摘できるのは、経験を積んだ人間翻訳者ならではの仕事です。

海外取引にかかるコストの中で翻訳料が占める割合はごくわずかです。「AIがあるから」という理由だけで、本来投資すべき部分の予算まで削るのは本末転倒ではないでしょうか。どの文書に投資すべきかを見極めることが、海外展開の成果を大きく左右します。

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言葉が運んでいるのは、意味だけじゃない

人間翻訳の職人技シリーズ 第3話

辞書を引けば意味は分かる、文法的には正しい。それでも何かが伝わっていない気がする──そんな経験を重ねるうちに見えてくるものがあります。言葉は意味を運ぶための入れ物にすぎず、本当に運ばれているのは、もっと別のものではないか、ということです。

2025年、ケンブリッジ大学出版局の「今年の言葉」は“parasocial”。AIとのやり取りに、人が一方的に親密さを感じてしまう心理を指します。海外の取引先から届く英文には、書き手の母語の文法の癖が透けて見えることがあり、単なる「ミス」として片づけるのがもったいなく感じられます。日本語話者にとって改行や文字組みは文章の「呼吸」であり、その乱れは伝わる印象を変えてしまいます。絵本の翻訳で“No thank you”を「だいじょうぶ」と訳した例は、はっきりとした「お断り」を、穏やかでありながら芯の強さが伝わる言葉に置き換えた仕事でした。

5つの気づきに共通するのは、言葉は意味を運んでいるようでいて、本当に運んでいるのは文化であり、感情であり、書き手や話し手の意図だ、ということです。言葉の奥にあるものを汲み取り、また別の言葉に託して届ける。それが、翻訳という仕事の、地味だけれど欠かせない部分なのだと、あらためて思わされます。

第4部

人間翻訳vsAI翻訳比較シリーズ

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「お客様の満足度向上に努めてまいります」をどう訳す

人間 vs AI、翻訳実測シリーズ 第一話 ── 「正しい」だけでは、届かない

日本企業のホームページやカタログ、統合報告書には、判で押したようにこの一文が登場します。「お客様の満足度向上に努めてまいります。」一見、何の変哲もない一文ですが、この一文をプロの人間翻訳者と、Grok・Gemini・ChatGPT・Claudeという4つのAI翻訳ツールに訳してもらい、それぞれのAI自身に「人間訳と自分の訳の違い」を分析させるという実験を行いました。

人間翻訳者の訳文は“Enhancing customer satisfaction remains at the heart of everything we do.”。一方4つのAIは、いずれも“be committed to”という安全な型に収まり、原文を辞書的にきわめて忠実に置き換えていました。人間翻訳者だけが、原文にない“at the heart of everything we do”という表現を加え、主語を「私たち」ではなく「顧客満足度の向上」そのものに据えたのです。

この人間訳をAI自身に見せて分析させると、4つのAIがそれぞれの角度から同じ方向を指し示しました。人間翻訳者は「努力します」という行為の表明を、「これが私たちの中心にある」という価値観の表明へと、一段引き上げて再構築していたのです。AIは原文の意味を英語という器に移し替えることに長けている一方、人間翻訳者はその器を受け取る読み手の体験そのものを設計している──今回のたった一文の差が、この二つの仕事の違いを鮮明に映し出していました。

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「品質管理の徹底に取り組んでまいります」をどう訳す

人間 vs AI、翻訳実測シリーズ 第二話 ── 「正しい」だけでは、届かない

「徹底」に対応する英単語は存在しません。辞書を引いてもthorough、rigorous、complete……候補はいくつも出てきますが、どれも日本語の「徹底」が持つ「隅々まで行き渡らせる」というニュアンスを一語では拾いきれません。

人間翻訳者の訳文は“We focus on maintaining the highest standards of quality at every stage.”。4つのAIはいずれも quality control という業務プロセスの語をそのまま残し、「徹底」を rigorous や thorough といった形容詞一語に対応させていました。人間翻訳者だけが、quality control という言葉自体を手放し、highest standards(基準の高さ)と at every stage(範囲の広さ)という二軸に分解して英語に置き直していたのです。

抽象的な一語を、具体的な「基準」と「範囲」という二つの軸に展開する。これは辞書を引いても出てこない作業です。AIは意味を運び、人間は読み手の体験を設計する──辞書に頼れない場面において、この構図はさらにくっきりと浮かび上がります。

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「地域社会への貢献に引き続き取り組んでまいります」をどう訳す

人間 vs AI、翻訳実測シリーズ 第三話 ── 「正しい」だけでは、届かない

この一文には、日本語の書き手も読み手も意識していない「省略」が隠れています。人間翻訳者の訳文は“We will continue to play an active role in the communities where we operate.”。4つのAIは「貢献する」を contribute や make a positive impact に対応させ、「地域社会」を the local community としました。人間翻訳者だけが、原文にはない“the communities where we operate”(私たちが事業を営む地域社会)という一句を加えていたのです。

日本語で「地域社会に貢献する」と書くとき、それが「自社の工場や店舗がある地域」を指すのは書き手にとっても読み手にとっても当たり前で、暗黙の了解として省略されています。しかし英語圏の読み手にとって、community という言葉だけでは、それがどの地域を指すのか曖昧に響きます。AIは書かれた言葉を訳します。人間翻訳者は、書かれなかった言葉までも訳しています。

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人間翻訳とAI翻訳、決定的な違いはここにある

人間 vs AI、翻訳実測シリーズ 総括

「お客様の満足度向上」「品質管理の徹底」「地域社会への貢献」。3つの実例を並べてみると、AIと人間のあいだにある違いは、単なる語彙選択の巧拙ではなく、もっと構造的なものだったことが見えてきます。

4つのAIに共通していたのは、原文の品詞や語順にできるだけ忠実であろうとする姿勢でした。一方、人間翻訳者の3つの訳文に共通していたのは、「原文の言葉」ではなく「原文が読み手に伝えたいこと」を起点に文章を組み立て直す姿勢です。行為の表明を価値観の表明へ引き上げ、辞書にない抽象語を具体的な軸に分解し、省略された前提を英語の読み手のために明示する。根っこにある判断はいずれも同じで、「この文章は、誰が、どこで、何のために読むのか」を想像し、読み手の中に残る印象までを設計することでした。

3つの実例のいずれにおいても、AIの訳文が「誤訳」だったことは一度もありません。問題は、「正しい」ことと「届く」ことが、常に一致するとは限らないという点にあります。社内文書やスピードが求められる場面ではAIの安全な訳文が力を発揮し、対外的なブランドメッセージや読み手の心を動かすことが目的の文章では、人間翻訳者による設計が力を発揮する。大切なのは、目の前の文章がどちらを必要としているのかを見極めることです。

第5部

AIが「空気」になる街、2028(未来予測シリーズ)

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AIが「空気」になる街、2028(理想編)

── 翻訳者の「作業」から「仕事」へ

Windows 1.0からWindows 11まで、実に40年近く。数年に一度、新しいバージョンが登場するたびに一喜一憂し、時にはPCの買い替えを迫られ、時には夜通しでOSの再インストールと格闘する。そんな「苦悩」を抱えながらも、私たち翻訳者はパソコンという道具と少しずつ付き合い方を学んできました。今、目の前で起きているAIの進化のスピードは、あのWindowsの歩みとは、もはや比べ物にならないほど速いものです。

そこで少し先の未来、2028年を想像しながら、AIと翻訳者の関係について考えてみたいと思います。先にお断りしておくと、これから描く2028年の風景は「こうなったらいいな」という理想像です。米調査会社Gartnerは、2028年までに企業の日常業務判断の少なくとも15%が自律型AIエージェントによって行われるようになると予測していますが、これは裏を返せば「残り85%はまだ人が判断する」ということでもあります。

Windows PCは、私たちが「意識して操作する道具」でした。一方、2028年のAIは、おそらくもうそういう存在ではなくなっているのではないでしょうか。電気や水道、そして空気のように、AIが人の暮らしの裏側に溶け込み、意識されることなく生活を支えている。それが、2028年という近未来の一つのシナリオではないかと思うのです。

このAIの「空気化」は、翻訳という仕事にも確実に及んでくるはずです。用語の統一、フォーマットの調整、定型的な言い回しの置き換え、大量の下訳の生成──こうした手を動かす部分の多くは、すでにAIが担い始めていますし、2028年にはさらに自然に、ほとんど意識されないレベルで処理されるようになっているでしょう。これまで翻訳者が担ってきた「作業(タスク)」の相当部分は、AIという空気のような存在に委ねられていく。では、翻訳者に何が残るのか。この文章は誰に何のために届けるのか、この表現は読み手の文化的背景の中でどう受け取られるか、クライアントが本当に伝えたかったニュアンスは何か、AIの訳文に潜むリスクはどこにあるのか、最終的にこの訳文の責任を誰が引き受けるのか──こうした問いに答える力は、AIがどれほど「空気」のように優秀になっても、簡単には代替されない領域だと思います。作業はAIへ、仕事は人へ。今、翻訳者に求められているのは、この棲み分けを恐れず、積極的に「仕事」の側に軸足を移していくことではないでしょうか。

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AIが「空気」になる街、2028(現実編)

── その手前にある、いくつもの壁

前回描いた未来像は、あくまで一つの理想形です。現実には多くの「壁」が立ちはだかっています。

まず押さえておきたいのが、AIの「導入率」と「定着度」はまったく別の指標だということです。McKinseyの調査によれば、企業の88%が何らかの業務でAIを利用していると回答しています。ところが同じ調査で、企業全体にAIをスケール(本格展開)できていない企業が全体の3分の2近くにのぼることも明らかになっています。さらに、企業の生成AI導入プロジェクトのうち、財務的な成果を出せているのはわずか5%にすぎず、95%は成果に結びついていないという報告もあります(MIT Project NANDA「The GenAI Divide」)。Gartnerは、エージェント型AIのプロジェクトのうち4割以上が、コストの増大や成果の不明確さを理由に、2027年末までに中止されると予測しています。

「空気」というのは、疑うことなく、意識せずに頼れる存在という意味でもあります。しかしMcKinseyの調査では、AIを導入した企業の51%が、AI利用によって何らかの負の影響(誤情報の生成など)を経験しており、その中でも「不正確さ」が最も多い問題として挙げられています。

日本の状況を見ると、さらに慎重にならざるを得ません。総務省の「令和7年版情報通信白書」によれば、企業の生成AI利用率は日本が55.2%なのに対し、米国90.6%、ドイツ90.3%、中国95.8%と、主要国は軒並み9割を超えています。PwCの調査では、生成AIの効果が「期待を大きく上回る」と回答した日本企業はわずか9%で、調査対象6カ国中最下位でした。弊社のお客様の多くが日本の中小企業であることを考えると、「AIが空気になる」というシナリオが、社会全体で一律に訪れるとは考えにくいのが実情です。

これは、AIの発展にブレーキをかけるべきだ、という話ではありません。大切なのは、「AIはすでに空気だ」という楽観にも、「AIはまだまだ使い物にならない」という悲観にも寄りかからず、今どこまで進み、何が壁として残っているのかを、できるだけ正確に見ておくことだと思います。

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AIが「空気」になる街、2028(専門編)

── 言語という、最後まで残る壁

「AIが空気になる速度」は、言語によって大きく異なります。そして日本語は、その中でも「空気になるのが最も遅い言語」の一つである可能性が高いのです。

ヨーロッパの言語専門家の7割以上が、業務の中で何らかの形で機械翻訳を活用しているというデータがありますが、これは主に英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語といった、文法構造の近いヨーロッパ言語同士を前提にした数字です。機械翻訳の品質を測るBLEUスコアでも、ヨーロッパ言語同士の高リソースな言語ペアでは55〜65点程度を記録する一方、英語と日本語のように言語的に距離が離れたペアでは、30〜40点程度でも「良好」と評価されます。同じ「良好」でも中身がまったく違うのです。

ある研究では、ポストエディットの効果を検証したところ、英語-イタリア語では大きな品質向上が見られた一方、英語-トルコ語や英語-日本語では、語順や形態論の違いから、その効果が限定的だったと報告されています。主語や動詞の位置、助詞の使い方、敬語のような階層表現──これらは単語を置き換えるだけでは処理しきれない、日本語特有の構造です。

「AI翻訳はもう十分に使える」という声は、多くの場合、AIにとって扱いやすい言語ペアを前提にしています。日本語という、語順・形態論・敬語体系のすべてにおいてAIにとって難易度の高い言語を扱う私たちは、その恩恵をまだ十分に受け取れていないのが実情です。これは悲観すべき話ではなく、むしろ翻訳者にとっての「仕事」の輪郭を、より鮮明にしてくれる事実だと思います。理想の風景、現実の壁、そして言語という壁。三つを重ねてみると、AIが「空気」になる日は、決して2028年に一律にやってくるわけではなく、言語によって、業界によって、その到達順序がまったく異なることが見えてきます。だからこそ、AIに「作業」を委ねながらも、人にしかできない「仕事」を磨き続けることに、これからも意味があると考えています。

第6部

見直される人間力

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AI企業が編集者に30万ドル払う時代(前編)

―Anthropic・OpenAIの採用に見る「判断」の値段 事実編―

編集者として1,100万部超の書籍を手がけてきた長倉顕太さんのfacebook投稿を参考に、「AI企業が、人間の編集者を高額の年収で採用し始めている」という話の裏を取ってみました。「AIが文章を書く時代に、なぜ人間の編集者に大金を払うのか」──一見矛盾しているように見えるこの現象は、翻訳業界にも無関係ではないはずです。

Claudeを開発するAnthropic社は、文章の品質・文体・トーンを管理する「Standards Editor」というポジションを募集しており、その年収は約29万5,000ドル(記事執筆時点のレートで4,000万円台後半)に達すると報じられています。求人票には「発表済みの実績」や「文法への深い理解」が求められており、AIの出力を人間がチェックする体制を作るための採用であることが読み取れます。海外メディアには「AIがライターを置き換えるはずなのに、なぜAnthropicは編集者に30万ドル払うのか」と題する記事まで出ています(TechRound、2026年7月20日)。AIは文章を「生成」できても「書く」こととは同義ではなく、ニュアンス・文脈・読者への配慮には人間の判断が必要であること、AI生成コンテンツへの「読者疲れ」が進む中で編集者の目利きの価値が上がっていることなどが、記事の中で指摘されています。

ChatGPTを開発するOpenAIも、文章の戦略や公開判断を担う「コンテンツストラテジスト」職に、最大で約40万ドルの報酬パッケージを提示していると報じられています。「求人票の上限額を見せているだけで話題作りではないか」という見方もできますが、複数の独立系メディアがほぼ同水準の金額を報じており、単発の誤報ではない一定の裏付けがあります。AIは、文章を無限に、ほぼコストゼロで生成できるようになりました。その結果起きたのは、「それっぽく書けること」自体の市場価値の低下です。一方で「何を書き、何を書かないか」「誰に、どの順番で届けるか」という判断には唯一の正解がありません。AIを作った企業が、その限界を最もよく理解しているからこそ、人間の編集的判断に高い値段をつけている──これが、今回確認できた事実から見えてくる構造です。

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AI企業が編集者に30万ドル払う時代(後編)

―「選択」と「配置」という編集的視点と翻訳の未来 翻訳編―

この現象は、歴史上何度も繰り返されてきたパターンです。カメラの登場で「正確に描く」画家の価値は下がりましたが、絵画そのものはなくならず、「何を、どう描くか」という視点の価値がむしろ上がりました。道具が進化するたびに、「作業」の価値は下がり、「判断」の価値が上がる──この構造は、翻訳の世界でもまったく同じ形で進行しつつあります。

長倉さんの投稿にあった編集者的視点「捨てる視点」「まえがきの視点」「行動の視点」は、翻訳という仕事にもそのまま当てはまります。「捨てる視点」──AI翻訳は原文の情報をできる限りすべて訳文に反映しようとしますが、経験のある人間の翻訳者は、読み手にとって不要な情報や対象言語の慣習に合わない表現をあえて削り、伝えるべき要点だけを残します。「原文に何が書いてあるか」ではなく「読み手に何を伝えるべきか」で判断する、AIが最も苦手とする領域です。「まえがきの視点」──ビジネス文書の印象は最初の一文・タイトルの訳し方で決まります。人間の翻訳者は、英語圏の読者が期待するコーポレート・ジャンルの慣習に合わせて訳文を再構成する、編集的な設計を行います。「行動の視点」──訳文を読んだ相手が実際にどう動くかを見据えて訳文を設計できるかどうかも、人間の翻訳者にしかできない判断です。

翻訳には「原文からの逸脱は許されない」という制約が編集よりも強く働きますが、「忠実さ」とは一語一句を置き換えることではなく、原文が持つ意図・トーン・読み手への効果を、対象言語の読み手にも同じように伝えることです。この「同じ効果を、別の言語・別の文化的文脈で再現する」という判断は、まさに編集的な判断そのもの。むしろ翻訳は、逸脱が許されない制約の中で編集的判断を行うという、より難易度の高い仕事だとも言えます。AI企業が人間の編集者に大金を払っているのは、皮肉でも矛盾でもありません。AIの限界を最もよく知る企業だからこそ、人間の判断に正しい値段をつけているのです。翻訳の世界でも、これから同じことが起きるはずです。AIが訳した「それっぽい訳文」があふれる時代に、価値を持ち続けるのは、何を残し、何を削り、どう届けるかを判断できる人間の翻訳者だと考えています。

第7部

AI翻訳は本当に安いのか

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「安い」の中身を分解すると・・・実は高くつく

――AI翻訳ツールを冷静に検証する

課金制のAI翻訳ツールは、たしかに安い。DeepL Proは月額1,200円程度のプランから利用でき、翻訳会社に日本語3,000文字を発注すれば数万円かかることを考えれば、桁が違います。一方、専門性の高い分野に特化したAI翻訳エンジンに目を向けると、様子が変わります。日本特許情報機構の「Japio-AI翻訳」は月額11,000円という基本料金を明示していますが、ロゼッタの「T-4OO」のような専門特化型エンジンは個別見積もり制が主流で、料金がまったく公開されていないケースも目立ちます。専門分野に足を踏み入れた瞬間、「AI翻訳は安い」というイメージは通用しなくなります。

さらに、この金額は「今日の値段」でしかありません。SaaS提供企業の73%がAI機能を有料オプション化しており、AI関連の機能追加によって月額料金が30〜100%上昇するケースもあると報告されています。翻訳業務を丸ごと一つのAIツールに依存させてしまうと、値上げが起きたときの選択肢は「受け入れる」か「乗り換えコストを負う」かの二択しかありません。

もうひとつ、価格表には現れないコストがあります。社員がAI翻訳をチェックする時間です。文書の分量や重要度によっては、チェックにかかる時間は数時間から数日規模になることも珍しくなく、その人件費だけでツールの月額料金を上回ってしまうケースは十分に起こり得ます。さらに厄介なのは、「このチェックはAIで足りるのか、それとも最初からプロに任せるべきなのか」という判断そのものが、専門知識を要するという点です。料金表の数字だけを見て「安い」と判断する前に、その安さが「いつまでの安さ」なのか、そして「誰がその境界線を引くのか」──この二つは、一度立ち止まって考える価値があります。

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「チェックすればいい」と言うけれど

――その「誰か」に、資格は要る

「AI翻訳+社員チェック」という体制を考えるとき、多くの企業が見落としているのは、「チェック」という工程そのものが専門技能である、という事実です。機械翻訳の出力を人が手直しする「ポストエディット」には、ISO 18587という国際規格が存在し、ポストエディターに求められる資格やトレーニングの観点までが定められています。「機械翻訳の後始末は、語学ができれば誰でもできる」という前提そのものが、国際的に見ても成立していないのです。

この「誰か」を社内でどう用意するか、考え方は大きく3つに分かれます。既存の社員に兼務させる方法は、チェックに費やした時間の分だけ、その社員が本来生み出していたはずの価値(機会費用)を見落としがちです。チェック専任のパートタイム人材を雇う方法は、依頼量が少ない月でも雇用は固定費として発生し続けます。専門の翻訳会社に外注する方法は、資格のある誰かを自社で確保・維持する負担そのものを外部に移すことができます。

大事なのは、どの方法が正しいかを一律に決めつけないことです。問題は、「この文書は軽いチェックで足りるのか、それとも専門家のチェックが要るのか」という最初の見極めそのものが、実は専門知識を要する判断だという点です。自社の中に、この見極めができる人がいるかどうか。いなければ、その判断ごと相談できる相手を持っておくことが、遠回りに見えて一番の近道になります。

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「また同じ人に」と言われる理由

――同じ翻訳者に、頼み続けるという選択

AI翻訳ツールが「安い」のは、本来なら人間が担うはずの手間が価格に含まれていないからです。省かれた手間は消えてなくなるわけではなく、見えないところで誰かが引き受けることになります。では、外部の翻訳会社に依頼する場合はどうでしょうか。一見高くつくように見えますが、外注には「都度チェックの担い手を探す」という負担そのものがありません。さらに、同じ翻訳者(翻訳会社)に継続して依頼することには、価格には表れないもうひとつの価値があります。それは、依頼するたびに一から説明しなくてよくなる、という積み重ねです。

弊社では、ある高級ブランドのマーケティング翻訳を20年以上にわたって担当しています。長年のお付き合いの中で、依頼者側がすべてを言葉にして説明しなくても、ブランドが大切にしているトーン、避けるべき表現、過去にどう訳して評価されたか──そうした判断の軸は、担当する翻訳者の中にすでに整理されています。AI翻訳ツールは、原理的にこれができません。依頼のたびにゼロから処理を行うだけで、過去のやり取りを記憶して次に活かす仕組みを持たないからです。仮に予算をかけて記憶を持たせたとしても、「今回のこの案件では、なぜその表現を選ぶべきか」という都度の判断は、記録の検索ではなく、長年の関係性の中で培われた文脈への理解から生まれます。

もうひとつ見落とされがちな価値があります。「この文書はAIで足りるのか、それとも慎重に扱うべきか」を、依頼する側ではなく、受ける側が一緒に考えてくれる、という点です。AI翻訳ツールは、契約が切れれば関係も切れます。翻訳会社との関係は、相談し、条件をすり合わせ、必要なときにドアを開けてもらえる相手がいる、ということです。

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3回にわたって分解してわかったこと

――「安い」の中身を、もう一度並べる

3回にわたって、AI翻訳ツールの「安さ」を分解してきました。第1回では、料金表の数字そのものが「今日の価格」に過ぎないこと、専門性の高い分野では料金の透明性そのものにばらつきがあることを見ました。第2回では、その先に必要になる「チェック」という工程が、実は専門技能であること、そして「このチェックはAIで足りるのか」という最初の見極め自体が専門知識を要する判断であることを見ました。第3回では、その見極めごと相談できる相手を持つことの価値を見ました。同じ翻訳者に継続して依頼することで、説明の手間が減り、蓄積された文脈が積み上がっていきます。

3回を通して伝えたかったのは、「AI翻訳は安い、人間翻訳は高い」という比較そのものが、実は不完全だということです。安さの中に何が含まれていないか、高さの中に何が含まれているか──比較すべきは金額の大小ではなく、その中身でした。AI翻訳ツールはSaaS業界全体の値上げ傾向にさらされ続け、専門分野に特化したエンジンになるとそもそも料金が公開されていないケースも珍しくありません。一方、翻訳会社との契約は、金額も条件も事前にすり合わせたうえで始まり、値上げがあるとしても一方的な通知ではなく相談から始まり、納得したうえで合意する関係です。

すべての文書に専門家によるチェックが必要なわけではなく、社内限りの文書であればAI翻訳だけで十分な場面も多くあります。問題は、その線引きを、翻訳の専門知識がない社内だけで判断してしまうことです。「これはAIで大丈夫か、それとも専門家に任せるべきか」──その判断に迷ったときにこそ、相談できる相手がいるかどうかが分かれ目になります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました

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